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日本のこれからの姿を考えてみました

  主権在民で日本の将来への展望を国民一人一人がもたねばならないと書いたので自分でも考えてみました。

 経済や政治もろくに知らない全くの素人の話なので現実性も無視してとにかく書いてみます。
 とにかく夢でも何でもいいから考えて、ここから考えと実行を少しでも始めればいいと言う程度の気持ちです。

 私は農作業に取り組んでいるし、農作業に取り組んでいる背景には、自給自足をしていくべきだという思いがあるので、その観点から書きます。

 我が家の食べ物の自給自足はできればしたいという思いはある。

 それにはいろいろ理由があるが、一つには自分の自由を守りたい思いなのだ。
 人間は、自分の生死を左右するものを人に握られていたら、自分の自由にはできない。例えば、会社で給料をもらっている人間は、基本、会社の意向に逆らえないだろう。例えば、反原発の意見を持っていても、会社が原発に関連する企業ならば、反原発の意見を公表することは困難になる。

 これは、生死に左右するものを企業に握られているからだ。
 もし、食べ物を自給できたら、会社を辞めても食っていけるし、反原発の意見も堂々と言えるだろう。だから、 わたしの中では、食べ物の自給自足と自由は結びついている。
 今、日本の食物自給率は40%で60%は海外に依存している。特にアメリカに依存しているのだろう。アメリカに従わなければならない理由の一つはここにもあると思われる。

 しかし、生活には衣食住が必要で、食物の自給自足だけで自給生活が成り立つわけではない。例えば住居や衣類を自給することは私には非常に困難だ。まして、今生活に使っているパソコン、自動車などは絶対に自給できない。
 そうするとどう考えるのか?

 私は、日本の社会の全体像を考えると、石原莞爾が終戦直後に提案した思想を思い出す。
 彼は、「われらが世界観」(石原莞爾戦後著作集・人類後史への出発)の中で、まず、国民皆農を主張する。 終戦直後にはアメリカが大量の食物を日本に輸入するなんて考えなかっただろうから、日本国民全体が食べられるのかという問題が大問題だった。そこで彼は、国民皆農を主張する。大臣もサラリーマンも工場主もみんな百姓をして、自分の家族の米野菜を自給するのだ。そこから新日本をスタートさせようと言うのである。
 そして、それに加えて、三つの主張をする。

都市解体。
農工一体。
簡素生活。

 都市解体。
 彼は、都市を解体せよという。
 工業も商業も政治も経済も一点に集中して巨大化、怪物化した都市を解体して、ばらして、地方にその機能を分散して、いくべきだというのだ。

 これはおもしろい考えだ。
 地方に工業、商業、政治、経済を分散していけば、それぞれ地方に人が分散し、その人を生活させるために、農業や生活必需品を生産、販売する工業、商業が活性化する。地方が村おこしをしなくても、都市に集中した富を分散できる。
 また、大都市集中であると、その都市が戦争や災害で壊滅状態になると国の機能が麻痺してしまう。しかし、地方に工業、商業、政治、経済を分散すれば、大都市が壊滅的打撃を受けても、地方ごとに生きていくことができる。

 それに加えて、農工一体。
 農業を行っている地方都市に、都市機能を分散すれば、工場が地方にくる場合もあるし、この工場で働く人々のための、農産物生産、生活必需品生産の工業、販売の商業も盛んになる。農工一体の生活になっていく。

 簡素生活ということからは、もったいないという考えは大切だといった思想などが思い浮かぶ。

 私は、最近、柄谷行人という人の、「遊動論・柳田國男と山人」という本を読んで大変面白かった。
 柄谷行人によると、柳田國男は、言わずと知れた民俗学の大家だが、若い時には農政学出身で農村の飢餓問題を解決したい希望があったのだそうだ。その中で、柳田は、農村を豊かにしていく方法をこのように提示したとある。

 「近代以前の農村には、さまざまな農業、加工業、軽工業があった。が、明治以後の農業政策は、農村に存在した手工業、加工業をすべて都市に移し、農村をたんに原料のみを生産する場とするものであった。ゆえに、農業生産力は増大したが、農村は衰退した。いいかえれば、農村は貧しくなくても、“寂しい”ものとなった。
 柳田は協同組合を農業ではなく農村、すなわち人々のさまざまなネットワークから考えようとした。したがって、それは農業、牧畜、漁業のみならず、加工業、さらに流通や金融を包摂するものである。柳田の協同組合は究極的に、農村と都市、農業と工業の分割を揚棄することを目指すものである。」(64ページ)

 ここで書かれていることは、石原莞爾の主張する、都市解体、農工一致の思想と近いものがあるように見える。
 そして、柄谷行人は、この主張を肯定的に認めているように読める。
 右派である石原莞爾と民俗学の柳田國男、左派の柄谷行人の考えに近いものがあることは興味深い。

 わたしの目標とする自給自足から、この都市解体、農工一致を考えると、自分や家族の自給自足は困難だが、地方都市単位で自給自足に近いものを実現していくという方向性だ。もちろん、完全な自給自足は困難だろう。パソコンや自動車が地方都市単位で自給できるとは思えない。しかし、食料や生活必需品の単位での自給自足は、地方都市単位で可能だろう。そうすれば、地方都市単位での自由な決断が可能になると思われる。


 例えば、電力も地方都市単位で自給できれば、いいと思う。そうすれば、東京の電力を福島が作り、被害は福島が負うような理不尽はなくなるだろう。
 自分の地元に即、影響があるならなるべく安全な方法を選ぶのではないだろうか?

 また、地方都市で個人の自由な判断に制限のかかるのは、地方都市の生活を成り立たせるために必要な場合が多いのだから、地方都市に生活する人間は納得しやすいだろうし、そうでない場合の議論もしやすい。

 私は個人や家族での自給自足を考えていたが、しかし、農産物は何とかなっても、肉、魚は難しいだろうし、衣類、住居も困難だろう。そうすると社会の分業が必要になってくる。しかし、地方都市単位での自給自足ならある程度の生活水準の維持は可能ではないか。

 もちろん、問題点もあるだろう。
 地方の顔役による支配が強化されてしまうかもしれない。また、日本全体で取り組まなければならない問題に対して、一致が取れにくくなる可能性がある。個人と集団のバランスが難しいように、国と地方都市のバランスが難しくなるだろう。

 日本の将来というと、他には、循環式社会、地産地消、脱原発、自然エネルギー使用などが思い浮かぶ。
 地方の都市における小規模な自給自足は、そうした目標達成のため、有利になるのではないか?小規模の方がそうした目標が実現しやすいのではないか?

 また、言うまでもなく、地方都市の自給自足の障害はいくつもあり、一番は中央の官僚や政治家が中央に集中した利権を手離すわけがないということだろう。

 それから、アメリカの圧力。
 今の日本はアメリカの多大な影響があり、アメリカの穀物を買っている日本の自給自足をアメリカが許すわけないとも思われる。

 そうした問題はあるが、一国民として夢でも何でもいいからとにかく日本の将来について考えてみました。

 
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by isehyakusyou | 2014-03-14 12:49
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