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悲惨な物置

 物置が先日の大風で、吹っ飛んだ。今日、畑に行ってみると、隣人から、物置が飛ばされてると言われた。50m位は飛ばされた。物置の入り口には壁がなかった。前回、屋根を直してきっちりしたら、風を受けやすくなったのだろう。風で転がされて、隣の田んぼに行ってしまった。稲の生えてる時期でなくてよかった。

 自然の力は恐ろしい。
 人知を超えている。

 百姓仕事していると、自然を守ることより、自然の力を防ぐことが多くなる。

 悲惨すぎる。
 引っ越した場所は風が強すぎる。
 前の場所ではそんなことはなかったのに。
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by isehyakusyou | 2014-03-21 20:25 | Comments(0)

武士土着論・会沢正志斎「新論」

  私は、少し前に、国民皆農、都市解体、農工一致の考えを日本のこれからの目標にしたら、どうかと書いた。

 それに関連して書きます。

 会沢正志斎の「新論」という本を読んだ。これが1825年、江戸時代の開国の28年前に水戸藩で、書かれた本だ。外国からの侵略が迫っているとの危機感から、どう対応すべきかをかいた本である。
 会沢正志斎は、尊皇攘夷を主張した水戸学の雄と言える人で、この本も、尊皇攘夷の主張で書かれている。
 そこにこういう文章があった。

「兵は地を守る所以なり。地は兵を養ふ所以なり。兵と地とは、相離るるを得ず、離るればすなはち地は空虚にして、兵は寡弱となる。」

(兵は地を守るところであり、大地は兵を養うところである。兵と大地は離れることができず、兵が大地を離れれば大地は空虚になり、兵は少なく弱くなる。)(素人百姓意訳、以下同)

「邦君をして強を国に養ふを得しめ、士大夫をして強を邑に養ひて、兵に土あり、土に兵あるは、末を強くする所以なり。」

(大名をして強兵を国に養うことができるようにさせ、士大夫(中級以上の武士)をして強兵を邑(むら)に養い、兵に大地があり、大地に兵がある状態であるのは、末端を強くするゆえんである)

「謂うところの『強を国邑に養ふ』とは豈必ずことごとく旧制を革め、都城を空しくして、皆これを遣帰するの謂ならんや。前賢、往々兵のよろしく土着すべきを論ぜり。」

(以前の賢者が言うところの『強兵を国邑に養う』とは必ずことごとく旧制を改めて、都城(おそらく江戸を指す・言い換えれば都市)を空にして、みな兵を故郷に帰させるの意味ではないか。以前の賢者は、しばしば兵士の土着を論じた。)

 これはなかなか面白い。
 正志斎は、欧米の侵略に危機感を抱いており、兵を強くしなければならないと思っている。
 しかし江戸時代の武士は、土地を離れ、農業をせず、農民から年貢を取り生活している。正志斎は、これらの前の箇所で、都市生活する武士が、「婦女、酒食、俳優、雑劇」などに溺れて、武を忘れ、堕落していることを嘆いている。
 そこで正志斎は、武士を都を離れさせ、故郷に土着させて、農業をさせるべきだと主張する。それが武士を再度強くする方法だと。

 石原莞爾の言った「国民皆農、都市解体、簡素生活」といった目標と似た方向性を示している。石原は、インテリ軍人として、尊王攘夷を主張した有名な「新論」を読んでいたに違いない。おそらく、石原莞爾は、「新論」を念頭に置きながら、「国民皆農、都市解体、簡素生活」を主張したのではないかと思った。

 「新論」に出てくる、前賢とは、荻生徂徠や熊沢蕃山を指すようで、こうした論理を「武士土着論」というのだそうだ。正志斎も、荻生徂徠や熊沢蕃山を踏まえてこういう主張をしたのだ。ずっと前からそういう思想があったのだ。
 つまり、都市生活者は、弱くなっているから、地方に戻して、大地に接しさせ強くすべきだという論があったのだ。多くの人が農を行うことで社会全体が強くなるという思想があったのだ。

 (全然別の知識だが、戦国時代、刀狩までは、百姓は戦う百姓だったみたいに聞いているし。)

 しかし、「新論」の上記の部分は、今、読んでも、農を中心とした地域コミュニティー論としてとらえると興味深い。

 また、現在の日本へのアメリカの多大な影響力を考えると、「新論」の書かれた江戸末期の尊王攘夷時代からずっと、外国とどう付き合うのかという問題が日本の重大な問題としてあり、日本の歴史の底流の流れを感じる。

 付け加えると、ペリー来航、開国後に会沢正志斎は、当時の国際情勢、欧米の軍事力の強さを認識して、開国やむなしと主張している。「時務策」という文書にその意見を書いている。
 敵を知り、自分を知って、勝算があって戦うべきなのに、武勇を高めるため戦うと言って、いたずらに勝算なく強敵と戦い、民衆を苦しめるのは、天皇陛下の御心ではないと書いてある。

 会沢正志斎は、幕末、開国後は、明治政府と同じ路線に立ったのだ。
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by isehyakusyou | 2014-03-21 10:36 | Comments(2)

飢餓がない!! 恐ろしい日本の食物自給率

 前回、日本のこれからの目標について考えた。
 その続きで書きます。
 前回、書いていて気になったことがある。それは、今の日本に飢餓がないということだ。
もちろんそれは好ましいことだが、よ~く考えると、非常に難しい問題を含んでいると思われる。

 前回、柳田國男の農政政策や石原莞爾の考えた日本像を紹介した。しかし、この二人の共通する認識として日本に飢餓の危険があり、それを防がなければならないという重大目標があったのだ。
 柳田國男が農政を勉強したのは飢餓問題の解決をしようとしたわけだし、石原莞爾が日本の将来像を提言した終戦直後は、「外地から内地へ引き上げてくるたくさんの人がいて、空襲で焼かれた焼野原が広がって、日本人は食えるのか?」という重大な問題があったのだ。

 しかし、今、誰が日本で飢餓問題の解決を考えているだろうか?
 今の日本には飽食はあっても、飢餓はない。
 なぜだ?
 食物自給率が40%と言われている日本で、なぜ飢餓がないのか?
 言うまでもなく、食物を輸入しているからだ。それは一体どういうことになるのか?

 まず、今回は現状認識するために資料を集めてみました。

 まず、農林水産省の「平成26年よくわかる食物自給率」から引用します。
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/pdf/260219factbook.pdf

 まず、どのくらい自給しているのか?
 米    100%
 小麦   12%
 肉類    8%
 魚     58%
 大豆    8%
 野菜   78%

 肉や大豆はほとんど海外に頼っている状況で、小麦もそうだ。
 野菜はまだいい方で、魚は6割くらいだ。
 これを見ると醤油や味噌といった日本人の食生活に欠かせない調味料の原料である大豆がほとんど、外国からの輸入に頼っている。(よく醤油とか納豆なんか「北海道大豆使用」なんて書いてあるけど、どうなってんのか?)

 年代で見てみると昭和35年には、カロリーベースで79%、生産額ベースで、93%自給していた。しかし、その後年々自給率は下がり、平成24年の段階でカロリーベースで39%、生産額ベースでは68%に落ち込んでいる。

 カロリーベースと生産額ベースの違いは、農林水産省は以下の説明を行っています。
「カロリーベースの食料自給率は、生命・健康の維持にはカロリーが不可欠であることから、供給カロリーが国内生産でどの程度賄われているのかを示す指標。
生産額ベースの食料自給率は、国内農業の経済的価値を示す指標であり、高度な生産管理により高品質な農産物を生み出すという我が国農業の強みを表すもの。」
 
 カロリーベースとは、栄養としてどのくらいかということで、生産額はお金に換算するということみたいだ。
 例えば、安くてカロリーのあるおにぎり10個1000円と高級なステーキ肉100g1000円があるとして、おにぎりは,10個で10人分の空腹を満たせるが、高級肉は100g1000円で一人の空腹しか満たせないみたいなことだろう。
 生産額からすると、ステーキは、2000円の半分の1000円だけど、カロリーベースだとステーキは11分の1だ。
 つまり日本人は高級食材を作ってもうけているけど、量は作っていないということだろう。

 農林水産省の「平成26年よくわかる食物自給率」には外国の食物自給率も書いてあります。(カロリーベース)
 カナダ       223%
 オーストラリア  187%
 アメリカ      130%
 フランス      121%
 ドイツ         93%
 イギリス       65%
 イタリア        59%
 韓国          50%
 日本          39%

 どう見ても日本が危ないことがわかる。欧米はほとんどの国で自給かそれに近い状態にあるじゃないか?
 最悪の事態になっても国民を飢餓に直面させない準備ができている。
 これは寒々しい情報だ。
 怖すぎる。

 では、上記の食物はどこの国から輸入しているのだろうか?
 (今度は別のサイト「JFTCキッズサイト」からの情報、2012年、平成24年)
http://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/item.html

小麦   52.9% アメリカ
      27.6% カナダ
      19.2% オーストラリア

大豆   61.6% アメリカ
      19.5% ブラジル
      16.3% カナダ

トウモロコシ
     75.5% アメリカ
     12.3% ブラジル
      3.6% アルゼンチン
 
「米国食肉輸入連合会」のサイトから
https://www.americanmeat.jp/trd/database/market/pork/2012/index.html
(2012年 平成24年)
豚肉   40.3% アメリカ   
      22.2% カナダ
      15. 0% デンマーク

「農畜産業振興機構」のサイトから
http://www.alic.go.jp/chosa-c/joho01_000479.html
(2010年 平成22年)

鶏肉
     約90.0% ブラジル


「米国食肉輸入連合会」のサイトから
http://www.americanmeat.jp/trd/database/market/beef/004.html
(2010年 平成22年)

牛肉
    70%  オーストラリア
    18%  アメリカ

 上記の結果でやはりアメリカからの輸入が多い。以外なのは鶏肉のブラジルと牛肉のオーストラリアが意外に多いことだった。

 それにしてもアメリカが多い。もし、アメリカが食物の輸入ストップなどの制裁措置を日本にとったら、日本の相当のパーセントが餓死する可能性があるということだ。
 アメリカが制裁するとすると、他の国々も協力するだろうから、カロリーベース食物自給率40%から考えると半分近くが餓死する可能性があるのではないか?

 日本がアメリカに逆らえない理由の一つもここにあるに違いない。
 私は以前、アメリカの農業のやり方を自然を破壊し、循環式農法を行わない「略奪式農業」と批判したが、自分も、その略奪式のアメリカ農業の食品を食べて生きているのだ。

 情けない。

 これに加えて種の自立もある。種の輸入がストップしたら農作物を育てられないではないか。

 食物の自立は、精神の自由の基礎という私の考えからは程遠い日本の現実だ。
 アメリカ屈従の理由がここにもあるのか?

 農林水産省の「よくわかる食物自給率」には、食物自給率が下がった理由が二つ述べられている。
 「品目別の一人一日当たりの供給カロリーを見てみると、国内で自給可能な米の供給量が減少する一方、輸入農作物に依存した肉類、油脂類の供給量が増加しています。」

「我が国は地形が急峻で、国土面積の約7割を森林が占めており、さらには経済の発展とともに工業用地、住宅用地の需要が伸びたことから、農地面積は年々減少しています。」

 食生活の変化、肉食が増加して、パン食などが増え、米食が減ったこと。
 農地が住宅や工業用地になったこと。

 これに加えて、農業を継ぐ人々は減っていることもあるだろう。
 そしてアメリカの圧力が陰陽にかかっていることも、推測できる。

 国は、農業を本気で守ろうとしていないと思う。以前、農業の本を読んだけど、ヨーロッパ諸国でも農業は、国が支えて保っている産業なのだそうだ。自由競争に任せては農家は絶対潰れるものなのだそうだ。
 国が本気で農業を守らないから、日本の農業は、衰弱していくのではないだろうか?

 また、給食で戦後パンを食べさせたのはアメリカが日本人にパン食を覚えさせて小麦の輸入を増加させる作戦だったと聞いている。
 食生活の変化には、アメリカの圧力もあっただろうし、日本政府の協力もあったのではないかと邪推してまう。

 今日は、食物自給率の低下の原因や対策までは考えず、今後の課題とすることにします。
 まずは現実認識として書きました。
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by isehyakusyou | 2014-03-20 18:54 | Comments(2)

二大政党制とキリスト教、それから八百万の神の国・日本

 前に議院内閣制(衆参議員の選挙で勝った政党が内閣を組織する政治。今の日本もこの方式)を成り立たせるためには、二大政党制が必要だと、明治時代に井上毅という人が書いたことを紹介した。

 今回は、イギリスやアメリカは二大政党制だけど、なぜ、そうなったのかを考えてみた。
 キリスト教の影響があったんじゃないかと思った。

 キリスト教では一人の絶対者である神が世界を支配している。その点では世界は一つに調和しているし、すべきものだ。
 しかし、人間は、不完全で相対的なものだ。しかし、神は相対的な人間に、絶対的なもの(神の御旨)を求めるように要求する。
 すると不完全で相対的な人間は、正反対の矛盾した二つの意見に分かれてしまう。

 例えば、政治で考えると、キリスト教的には、神の御旨(理想の社会)を求めなければいけないが、理想の社会を求めると、一方に個人の自由を重んじる政策があり、もう一方に不公平を是正して平等を目指す政策が出てくる。
 言い換えると個人が自由に儲けさせ自助努力させることを促す政策と、政府によって富の再分配をして弱者に回し、社会保障を充実させる二つの政策が出る。
 言い換えると自由と平等の双方の意見がでる。
 この二つは矛盾して対立するがどちらにも正しい面がある。
 この二つで議論して妥協点を見出していくのが二大政党制なのだろう。

 キリスト教は二元論で成り立っていると私は思う。
 愛と正義、赦しと裁きで成り立っている。
 それを調和させる接点がイエスの十字架だと思う。
 だからキリスト教的に考えると、二元論になり、弁証法になる。

 それでイギリス、アメリカでは二大政党制なのではないか。
 ここで一つ大切なのは、キリスト教の場合、調和、言い換えれば、理想の社会はこの地上にできないことが前提になる。
 人は絶対を求めて、得られない。不完全な相対しか得られない。絶対的なるものは「神の国」にしかない。地上にはないのだ。にもかかわらず、理想を求めなければならない。ちょっとつらいけど、そうだし、キリスト教では理想の社会を求めてなければいけないけど、それが実現するとか考えてはいけないのだ。

 マルクス主義はこの地上に理想の社会が出現するとする思想だ。それは、アメリカ人やイギリス人からすると過激で現実離れした危険な思想に思えるだろう。アメリカやイギリスに共産主義は、受け入れられないだろうし、米英の共産党というのは聞いたことがない。(いても少数派だろう)

 日本は?というと八百万の神の国だ。
 日本はいろいろな価値観が並立、雑居するお国柄だ。しかも、いろいろな価値観の多くは外来のものだ。(私は天皇家ですら外来ではないかと疑っている)
 仏教、漢字、儒教、民主主義、科学技術、近代文学、マルクス主義いろんなものを受け入れて、雑居している。

 本居宣長は言った。
「仏教で治まるなら仏教で治めればいい、儒教で治まるなら儒教で治めればいい、みんなその時の神道なのだから」と。

 しかも日本人は過去のものを丁寧に保存している。仏教だって飛鳥仏教、奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教といろいろな時代の仏教を保存している。
 政治も雑居的に存在する。
 自民党(明治以来の国家神道)、公明党(仏教)、共産党(マルクス主義)、日本維新の会(文明開化。違うか?)。そのほか。

 こうした雑居状態に統一感とか、ないと感じられる。
 キリスト教のように一人の神の下に世界は調和しているはずだという考えは感じられない。
 米英の政治みたいに個人の自由と平等がいつか調和するのではないか、いや、絶対者の神のものとでは調和するに違いないみたいな気持ちは感じられない。

 日本人に私がイメージするのは水だ。
 西洋人は、確固たる建築を作る。
 日本人は、外国の文化を枠にして、その中に情の水を入れる。水は方円の器に従う。方円とは四角と丸。枠が四角でも丸でも水は入ればその形になる。
 私は、西洋伝来の民主主義でも、政党政治でも、共産主義でも、近代文学でも、それによって集まった日本人集団が上下関係を気にし、相手の感情に気を使いながら、情を確かめ合う姿を思いうかべる。本来の主義より人間関係を大切にする。それが日本人ではないか?


 日本人みんながキリスト教を信じて、統一感のある世界観を持つもの難しいそうだ。
 そうすると日本では政治は混迷するしかないのか?
 日本、この優しい女が眠る国、哀しい男が吠える国は、どうなるのか?

 どうしたものか?


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by isehyakusyou | 2014-03-19 21:53 | Comments(2)

日本のこれからの姿を考えてみました

  主権在民で日本の将来への展望を国民一人一人がもたねばならないと書いたので自分でも考えてみました。

 経済や政治もろくに知らない全くの素人の話なので現実性も無視してとにかく書いてみます。
 とにかく夢でも何でもいいから考えて、ここから考えと実行を少しでも始めればいいと言う程度の気持ちです。

 私は農作業に取り組んでいるし、農作業に取り組んでいる背景には、自給自足をしていくべきだという思いがあるので、その観点から書きます。

 我が家の食べ物の自給自足はできればしたいという思いはある。

 それにはいろいろ理由があるが、一つには自分の自由を守りたい思いなのだ。
 人間は、自分の生死を左右するものを人に握られていたら、自分の自由にはできない。例えば、会社で給料をもらっている人間は、基本、会社の意向に逆らえないだろう。例えば、反原発の意見を持っていても、会社が原発に関連する企業ならば、反原発の意見を公表することは困難になる。

 これは、生死に左右するものを企業に握られているからだ。
 もし、食べ物を自給できたら、会社を辞めても食っていけるし、反原発の意見も堂々と言えるだろう。だから、 わたしの中では、食べ物の自給自足と自由は結びついている。
 今、日本の食物自給率は40%で60%は海外に依存している。特にアメリカに依存しているのだろう。アメリカに従わなければならない理由の一つはここにもあると思われる。

 しかし、生活には衣食住が必要で、食物の自給自足だけで自給生活が成り立つわけではない。例えば住居や衣類を自給することは私には非常に困難だ。まして、今生活に使っているパソコン、自動車などは絶対に自給できない。
 そうするとどう考えるのか?

 私は、日本の社会の全体像を考えると、石原莞爾が終戦直後に提案した思想を思い出す。
 彼は、「われらが世界観」(石原莞爾戦後著作集・人類後史への出発)の中で、まず、国民皆農を主張する。 終戦直後にはアメリカが大量の食物を日本に輸入するなんて考えなかっただろうから、日本国民全体が食べられるのかという問題が大問題だった。そこで彼は、国民皆農を主張する。大臣もサラリーマンも工場主もみんな百姓をして、自分の家族の米野菜を自給するのだ。そこから新日本をスタートさせようと言うのである。
 そして、それに加えて、三つの主張をする。

都市解体。
農工一体。
簡素生活。

 都市解体。
 彼は、都市を解体せよという。
 工業も商業も政治も経済も一点に集中して巨大化、怪物化した都市を解体して、ばらして、地方にその機能を分散して、いくべきだというのだ。

 これはおもしろい考えだ。
 地方に工業、商業、政治、経済を分散していけば、それぞれ地方に人が分散し、その人を生活させるために、農業や生活必需品を生産、販売する工業、商業が活性化する。地方が村おこしをしなくても、都市に集中した富を分散できる。
 また、大都市集中であると、その都市が戦争や災害で壊滅状態になると国の機能が麻痺してしまう。しかし、地方に工業、商業、政治、経済を分散すれば、大都市が壊滅的打撃を受けても、地方ごとに生きていくことができる。

 それに加えて、農工一体。
 農業を行っている地方都市に、都市機能を分散すれば、工場が地方にくる場合もあるし、この工場で働く人々のための、農産物生産、生活必需品生産の工業、販売の商業も盛んになる。農工一体の生活になっていく。

 簡素生活ということからは、もったいないという考えは大切だといった思想などが思い浮かぶ。

 私は、最近、柄谷行人という人の、「遊動論・柳田國男と山人」という本を読んで大変面白かった。
 柄谷行人によると、柳田國男は、言わずと知れた民俗学の大家だが、若い時には農政学出身で農村の飢餓問題を解決したい希望があったのだそうだ。その中で、柳田は、農村を豊かにしていく方法をこのように提示したとある。

 「近代以前の農村には、さまざまな農業、加工業、軽工業があった。が、明治以後の農業政策は、農村に存在した手工業、加工業をすべて都市に移し、農村をたんに原料のみを生産する場とするものであった。ゆえに、農業生産力は増大したが、農村は衰退した。いいかえれば、農村は貧しくなくても、“寂しい”ものとなった。
 柳田は協同組合を農業ではなく農村、すなわち人々のさまざまなネットワークから考えようとした。したがって、それは農業、牧畜、漁業のみならず、加工業、さらに流通や金融を包摂するものである。柳田の協同組合は究極的に、農村と都市、農業と工業の分割を揚棄することを目指すものである。」(64ページ)

 ここで書かれていることは、石原莞爾の主張する、都市解体、農工一致の思想と近いものがあるように見える。
 そして、柄谷行人は、この主張を肯定的に認めているように読める。
 右派である石原莞爾と民俗学の柳田國男、左派の柄谷行人の考えに近いものがあることは興味深い。

 わたしの目標とする自給自足から、この都市解体、農工一致を考えると、自分や家族の自給自足は困難だが、地方都市単位で自給自足に近いものを実現していくという方向性だ。もちろん、完全な自給自足は困難だろう。パソコンや自動車が地方都市単位で自給できるとは思えない。しかし、食料や生活必需品の単位での自給自足は、地方都市単位で可能だろう。そうすれば、地方都市単位での自由な決断が可能になると思われる。


 例えば、電力も地方都市単位で自給できれば、いいと思う。そうすれば、東京の電力を福島が作り、被害は福島が負うような理不尽はなくなるだろう。
 自分の地元に即、影響があるならなるべく安全な方法を選ぶのではないだろうか?

 また、地方都市で個人の自由な判断に制限のかかるのは、地方都市の生活を成り立たせるために必要な場合が多いのだから、地方都市に生活する人間は納得しやすいだろうし、そうでない場合の議論もしやすい。

 私は個人や家族での自給自足を考えていたが、しかし、農産物は何とかなっても、肉、魚は難しいだろうし、衣類、住居も困難だろう。そうすると社会の分業が必要になってくる。しかし、地方都市単位での自給自足ならある程度の生活水準の維持は可能ではないか。

 もちろん、問題点もあるだろう。
 地方の顔役による支配が強化されてしまうかもしれない。また、日本全体で取り組まなければならない問題に対して、一致が取れにくくなる可能性がある。個人と集団のバランスが難しいように、国と地方都市のバランスが難しくなるだろう。

 日本の将来というと、他には、循環式社会、地産地消、脱原発、自然エネルギー使用などが思い浮かぶ。
 地方の都市における小規模な自給自足は、そうした目標達成のため、有利になるのではないか?小規模の方がそうした目標が実現しやすいのではないか?

 また、言うまでもなく、地方都市の自給自足の障害はいくつもあり、一番は中央の官僚や政治家が中央に集中した利権を手離すわけがないということだろう。

 それから、アメリカの圧力。
 今の日本はアメリカの多大な影響があり、アメリカの穀物を買っている日本の自給自足をアメリカが許すわけないとも思われる。

 そうした問題はあるが、一国民として夢でも何でもいいからとにかく日本の将来について考えてみました。

 
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by isehyakusyou | 2014-03-14 12:49 | Comments(0)

味噌つくり

一日遅れましたが、東日本大震災の3年目にあたり、亡くなられた方の冥福をお祈りするとともに、今もなお、震災と原発事故で不自由な生活をされている方々が、一日も早く通常生活に戻る日が来るようにお祈りいたします。

 味噌を今年も作りました。
 もう4回目になって、年中行事になっている。
 今年の特徴は、米麹と塩を増やしたこと。大豆、1.2kgに対して、米麹が1.4kg。塩が800g(家族が塩が薄いというので)

 
 準備完了。
 
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 大豆を潰してペースト状にしている途中。
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 全部潰しました。これを米麹、塩と混ぜる。
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 混ぜて、ビニール袋に入れました。
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 今年の大豆はよく煮てあるのか、水分が多くて、とろめ、柔らかめになった。なんか、空気抜きがうまくいかなかったけど大丈夫かな?
 白味噌なら7月から食べられる。11月ごろ赤味噌で食べられる。

 それから昨日、訪問者が1万人を突破した。
 訪問者は、このブログに来た人数。
 見た人数は、来た人が一人何回も見るかもしれないから、もっと多い。
 1万人もこのブログを見てくれたんだなあと思うとうれしい。感謝します。
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by isehyakusyou | 2014-03-12 14:58 | Comments(0)

ジャガイモの種イモ植え

 今年から私の栽培方法について書いていくことにします。
 人の参考になるかもしれないし、また、自分でも書くことで発見があるかもしれないと思うからです。

 ジャガイモの種イモは、ここでは2月末から3月に植える。
 芽が出て霜が下りないことが条件だ。

 畝幅は60~80cm。
 ジャガイモは地下にできる。4~5月、イモができて、畝から一部が顔を覗かせてしまうと、日に当たって緑になり、食べられなくなる。だから、その前に畝に土をかける必要がある。そのためには、畝の間の距離をある程度とっておく必要がある。だから60~80cm。

 かぶ間は30cmくらい。

 深さは10cmくらい。

 秋~冬に、牛糞、鶏糞を畝に漉き込んである。1畝に牛糞1袋、鶏糞は表面を覆う程度。
 それに加えて、私は例年、牛糞と鶏糞を混ぜたものを種イモの下に混ぜてきた。
 ジャガイモは、未消化の有機肥料を嫌うらしい。

 また昨年はジャガイモの収穫が悪かった。今年は種イモも大きめにした。普通60gで大きい種イモを三つに切る。今年は二つに切って100gくらいのを使用する。

 今年は実験で、いろいろ試してみる。
 海側の畝から、メイクイーンの種イモの間にそれをいれた畝。
 メイクイーンの種イモを入れて何も入れない畝。
 男爵の種イモの下の土にそれを入れた畝。
 何も入れない男爵の畝。
 以上の4畝を作って、結果を見てみることにした。実験結果を今後、この場で、お知らせしていきます。

 以下の写真は、手前が穴に埋めたもの。向こうは並べて、これから穴を掘って埋めるもの。
 
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by isehyakusyou | 2014-03-07 21:48 | Comments(2)