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自民党改憲草案批判4・緊急事態条項

 今回は、弁護士さんの話に戻って、弁護士さんによる自民党改憲草案の話をします。

 今回のテーマは緊急事態条項です。

 この緊急事態条項は現在の日本国憲法にない条項です。
 おおまかな内容は次です。

 「内閣総理大臣が、外国からの武力攻撃、内乱、自然災害の際に、閣議にかけて緊急事態を決定する。緊急事態の国会承認は事後でもかまわない。緊急事態の際には、内閣は法律と同一の効力をもつ政令を制定できる。緊急事態の場合、国民は国の指示に従わなければならない。緊急事態中に国会議員の選挙は行われない。
 緊急事態は国会承認を経て百日ごと継続できる。」

 これについて弁護士さんは、こう話しています。

①緊急事態は、総理が簡単に決めてしまえる

緊急事態を閣議で決めてしまえるのです。閣議は総理大臣がトップであり、他の大臣は部下ですから、総理が言い出せば、普通「NO」とは言えないでしょう。つまり、総理大臣が簡単に緊急事態を決められるのです。

③緊急事態には内閣が、法律と同一の政令を決められるため、首相が論議せず法律を作れる

 内閣が法律と同等の政令を出せ、財政処分を行え、地方自治体にも指令が出せます。
 法律は立法府である国会が決めるものです。それが三権分立だし、独裁を防ぐためにあります。
 行政府の長が法律を作れるなら、三権分立は崩れ、独裁的体制になりかねません。
 また財政の支出もできるなら、独裁的に何でもできる可能性が高くなります。

④緊急事態時の国民の権利を制限してかまわなくなる。

 緊急事態では「国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示にしたがわなければならない」とあります。
 その間に国の出した命令に国民は従わなければなりません。国民の表現、報道、集会の自由などが制限される可能性があります。
 この条文には「基本的人権に関する規定は最大限に尊重されなければならない」とあります。
 言い換えれば、ある程度制限されてもやむなしと取れる条文です。
 しかも、他の人権に関する条項には「公の反してはならない」といった条文が入っており、「公」の名のもとに人権を制限することは、この草案の前提になっています。

⑤百日ごとに緊急事態を継続できるので首相の一存でいくらでも延長できる

 延長をいくらでも首相の意志で決定できるなら、首相が自分に都合よく延長する可能性がないとは言えません。
 
⑥緊急事態の間、国会議員の選挙は行われない。

 緊急事態の間、選挙が行われないとするなら、国民のチェック機能が働かないということです。
 好きにできてしまいます。特に過半数をある政党がとっていた場合、ずっと過半数が続くと言うことです。

⑦東日本大震災の際など災害時に大切なのは現場に権限を下ろすこと。それに逆行する緊急事態条項

 東日本大震災の際に、中央に権限を集中させると、現場の問題がわからない中央が間違った意思決定をした場合が多かったという反省がなされています。現場の問題を知った現場が判断していくのが適切な対応ができます。
 こうした権限の中央化は、そうした災害時の反省に逆行するものです。

⑧現在の法律で緊急事態の対応はできるようになっており、新しい条文はいらない。

 法律の専門家として、いくつかの災害を経て、日本の法律は災害時に対して対応できており、これ以上のものはいらないと思います。

 以上です。以下私の感想です。

 日本が独裁的になることを危惧しました。

 アメリカで9・11テロの後にテロ対策として、国民の自由や人権を制限していったことは、ルポライターの堤未果が指摘することです。アメリカでは多くの人が「BEFORE911.AFTER911」と言ってその違いを発言していると。また、マイケルムーア監督のDVD「華氏911」でも911テロで生活を制限されていくことを見ることができます。

 国際平和支援法で自衛隊が世界のアメリカ戦場に出ていけば、テロの目標になりやすいことは多くの人が指摘しています。イスラム国も「安倍は愚かな決断をした」とか言って、日本人をテロ目標にする発言をしています。
 東京でテロが起きたら、日本はパニックでしょう。緊急事態条項があれば、多くの人がその発動に賛成しそうです。
 そして、国民の集会の自由、言論の自由、報道の自由などの制限、国民の管理強化などが進む可能性を感じました。
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by isehyakusyou | 2016-05-20 10:06 | Comments(1)

未来の構想の必要。宗教と政治について

 前回、軍事は、計算と妥協を繰り返して、殉教をしないという趣旨を書いた。

 しかし、あれからまた考えたので意見を補足します。

 軍事は、殉教をしないというのはそうあるべき姿だが、しかし、軍事の中に、殉教の背後にある宗教(絶対的な理想)を持ち込まないかと言えば、話は込み入ったものになる。

 軍事は現実的なものであり、計算と妥協を繰り返すことは真実だが、しかし、ただ現実だけで成り立つものではない。
 現実の有様とは、簡単に言えば、強い者が勝つということだ。
 そこで現実だけを見て計算すれば、結論は、強い者に従い続けて、負け戦をしないということに尽きる。

 しかし、それだけではいけないのだ。
 軍事あるいは政治には、未来の構想が必要になる。それがなければ、軍事の計算と妥協は、強い者に追従するというだけのものになってしまう。
 未来の構想があってこその現在の妥協なのだ。現在では妥協を行うのは仕方がない。しかし、未来の構想のために今できる努力が何なのかを考えて、努力をしなければならない。
 強い者に従うだけの計算と妥協と未来の構想をもった計算と妥協は、今は小さな違いでも、数十年後の姿は、全く違うものになる。

 ある敗戦国があるとして、敗戦した時期は、勝戦国に従うしかない。しかし、その時、将来の構想を持ちながら進むのと、勝戦国に屈従するだけで進むのでは未来の姿は大きく違う。だから、将来の構想を持たなければならない。

 かつての敗戦国、ドイツは今やEUを支配する盟主と言われている。その実力はかつての勝戦国フランスにも強い影響を持つと言われている。かつての敗戦国ドイツがここまで変貌したのは、敗戦時に未来の構想を持ち、それを実現するために計算と妥協を行って努力し続けてきたからに違いない。

 将来の構想を提示するもの、それは社会科学だ。(一応そういう言葉を使う)
 社会科学は、現実にはまだない未来の構想を、言葉で構築して提示するものだ。
 これが必要だ。

 私の見るところ、日本人は、社会科学が苦手だ。日本人は、目に見えないものを構想することは苦手だ。
 現実にあるものを理解することは得意だ。現実にあるものを感じとる力は優れている。
 しかし現実にない未来の構想を言葉で作っていくことは苦手なのだ。

 実は、社会科学や未来の構想の背後にあるもの、それが宗教なのである。あるいは宗教が示す、絶対的理想や究極の社会の姿なのだ。絶対的理想の社会をこの世に実現しようとして社会科学は未来の構想を提示する。そして軍人や政治家は、その未来の構想を実現しようとして、計算と妥協を繰り返していくことが正しい道と私は思う。

 宗教と政治は正反対で矛盾している。それは厳然とした事実なのだが、しかし、二つとも同じ人間が持っているものだ。それは実は究極には一つのものを目指す。あくまで究極で、今の現実ではないが。

 宗教と政治は、弁証法的関係にある。
 相反し、対立して、矛盾している宗教と政治は、究極的には一つのものを目指しているのだ。

 政治家や軍人は、こころの中に、未来の構想、社会科学、そして宗教を持たなければならない。
 しかも、それがすぐに達することはなく、それを目指して計算と妥協を繰り返すものとして、持たなければならない。
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by isehyakusyou | 2016-05-09 08:12 | Comments(3)

自民党改憲草案批判3・無自覚な宗教家であった旧日本帝国軍人の悲劇

 今回は弁護士さんの話でなく、私の自民党改憲草案批判を書きます。

 わたしが自民党の改憲草案を読んで最初に一番驚いたのは「信教の自由」に関する条文だった。

「3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。ただし社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」

 これには驚いた。
 宗教だが「社会的儀礼、習俗的行為」とみなされるものとは、歴史的に見て国家神道を指す。
 明治政府は、明治初期から国家神道を国民精神に浸透させ国民を一体化しようとして愛国心を植え付けようとした。
 この国家神道の国教化と明治憲法の信教の自由は矛盾する。
 そこで生み出された論理が神道非宗教論だ。
 神道は宗教でないという理由で全国民、全宗教信者に参加を強要したのだ。

 自民党はそうした欺瞞の論理を憲法に載せて、国家神道の教育を子供たちにしようとしているのだ。

 神道非宗教論は欺瞞の論理だ。
 なぜなら国家神道は宗教だから、教理をもって人間の規定し、人間を宗教的行為に導く宗教だから。

これはかつてこのブログで書いた。
http://isehyakusy.exblog.jp/17995397/
2013年9月22日

 今回は、そうした欺瞞の論理、神道非宗教論が、どういう悲劇を生み出したかを書きたい。

 まず国家神道という宗教の基本教理について教育勅語を参考に書く。

「天照大神が子孫の天皇に日本の支配権を委ねた。だから天皇には日本の支配権がある。
国民は、天皇を主とする、家来である国民(臣民)である。だから天皇に従わなければならない。天皇は国民を親が子を愛するように愛する。国民は国家存亡の危機があれば命を投げ出して戦わなければならない」

 神道は宗教でないということで、明治以来、すべての国民に教育勅語などで国家神道教育がなされた。
(そして自民党はその復活を狙っている)
 その際、その国家神道の最も激しい信者になったのは軍人だった。
 軍人は命がけで戦う、自分が死ぬかもしれない。その軍人にとって、厳しい軍務に耐えるには、信念が必要だ。命をかけても悔いのないと思える信念が必要になることは、だれでも分かるだろう。
 その信念を提供したのは国家神道だった。
 軍人には、その精神の拠り所として、「軍人勅諭」が叩き込まれた。これは天皇を頂点とした国家に忠誠をつくすことを書いた天皇から軍人に下されたじきじきの文書で軍人は誰もが暗記していた。
その一部を引用する。

「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば、朕は汝等を股肱と頼み、汝等は、朕を頭首と仰きて、その親は特に深かるべき」

「軍人は忠節を盡すを本分とすべし」

「國運の盛衰なることを辨へ、世論に惑はす政治に拘らず、只々一途に己か本分の忠節を守り。義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ。其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ」

素人百姓訳
「わたし(天皇)はお前たち軍人の大元帥なのだぞ。わたし(天皇)はおまえたち軍人を手足のように頼み、お前たちは天皇を頭と仰いで、その親しみは特に深い」

「軍人は忠節を本分とすべきだ」

「国の運が上下することをわきまえて、世論を惑わす政治にかかわらず、ただ一途に自分の本分の忠節を守り、義は山より高く、死は鳥の羽より軽いと覚悟せよ。その操を破って不覚を取り汚名を着てはならない」

 こうした文書を軍人は暗記して自分の信念の根底としておいていた。

 軍人はこうした宗教を信仰したのだ。

 崇拝する天皇の手足となり命令に従い戦い、義は山より高く、命は鳥の毛より軽く考えよと思いながら生きることを目指した。不覚を取り汚名を着るなとは国家神道のため殉教しろということだ。それを目指した。

 しかし明治以来の帝国軍人に自らが宗教家だという自覚はなかった。国家神道は、宗教でないとして、教えられたからである。宗教であるものを宗教でないとしながら、信仰させた結果、宗教信者であるのに、宗教信者としての自覚を持たない、異常な精神が出現した。しかも、宗教信者の自覚のない宗教者であった彼らは、軍人であったのである。

 私はここではっきり書いておきたいが、宗教と軍事の行動は違う。
 宗教と軍事は正反対と言っていいほど違うのだ。

 多くの宗教は、現世を超えた絶対的、永遠的なものを求める。国家神道もそうしたものを求める。義は山より高いのだ。
 が、軍事は違う。永遠的、絶対的なものは求めない。現世での希望のために、現世の中で、うまく現実を調整しながら、戦うものなのだ。最終的勝利のために、計算と妥協を繰り返す。勝てる可能性のある戦いをするのだ。負けとわかっている戦いはしない。
 負けるとわかっているなら、降伏して捕虜になり、生き残り、その後の再戦闘の準備を進める選択を取るのだ。

 宗教は現世と妥協しない。してはならないものだ。なぜなら、宗教は、現世を超えた永遠絶対的なものを求めるから。例えばキリスト教で現世と妥協せず、死んだ殉教者は勝利者なのだ。信者が仰ぐべき崇高な手本なのだ。
 カトリック教会では殉教者を勝利者として賛美する。
 そして靖国神社でも戦死した英霊を賛美する。英霊は、かわいそうな犠牲者ではなく賛美されるべき英雄であり、顕彰される存在である。

 しかし軍事はそうでない。軍事では殉教はしてはならないことだ。
 軍事では死ぬとわかりきっている作戦を遂行するなど軍人にあるまじき愚行だ。そんなことをしてはならない。軍事は、最終的に勝つことを目指す。負けるとわかっている戦いは避けなければならない。負け戦を避けて、次の戦いの準備をすべきなのだ。軍事は計算と妥協を繰り返し、勝つ可能性のある場合戦い、現世を生き抜くことを目指す。負けるとわかっている戦争をする軍人は愚かで否定されるべき存在だ。


 このように軍事と宗教は矛盾し合う。正反対の動きをする。軍事は大きく言えば政治の一部に含まれる。軍事は政治の一分野である。そして政治は、軍事と同様に、計算と妥協を行い現世を調整しながら行動する。
 宗教と軍事(政治)は正反対で矛盾する。
 だから政教分離がある。政治(軍事)は宗教に介入せず、宗教は政治(軍事)に介入しない。
 政治(軍事)と宗教が一体化してはならないのだ。

 だから、政教分離があり、信教の自由がある。政治が宗教に介入したり一体化したりしない。

 しかし、そうした軍事と宗教の矛盾した中、、軍人である人間が、無自覚な宗教家だったらどうだろうか。その無自覚な宗教者が軍事行動をしたらどうなるか?
 無自覚な宗教者であった旧日本帝国軍人が行動したら、どうなるのか?

 軍事判断の中に無自覚に宗教判断が入り込み、本人の自覚なく悲惨な悲劇が起こるだろう。
 勝てる戦いをすべき軍人が、殉教するという判断を、無自覚にしていくことになるだろう。
 それが太平洋戦争で起きたことなのだ。
 なぜ、勝てないアメリカとの戦争を日本が始め、余裕のあるうちに途中で妥協してアメリカと和睦する道を選ばなかったのか?その理由は日本の軍人が無自覚な宗教家だったのであり、軍事判断をする際、宗教判断を無自覚にしていった結果なのだ。
 その究極が、勝てない戦いに命がけで突っ込み全員死ぬという玉砕なのだ。あるいは特攻なのだ。

 私は、宗教行為として玉砕や特攻に壮絶な美しさがあること、国家への自己犠牲という宗教行為に胸をうつ壮絶な美しさがあることを否定しない。

 しかし、軍事的行為としては間違いだった。
 軍人は軍事的判断をすべきなのだ。

 しかももっとも恐ろしいのは、国家神道という宗教の信者でない人間、あるいは、殉教するまで深い信念の無い人間に殉教を強要したことだ。政教分離がきちんと成り立ち、信教の自由が確保された場合にはそうした無理強いの殉教はありえない。存在するはずはないのだ。「私は信じていない宗教のために殉教するつもりはありません」と言えるのだ。
 国家神道の信者で殉教までの強い信仰がある人間(軍人)が、自覚して殉教するのは仕方ない。ある意味美しいかもしれない。
 
 しかし、殉教したくない人間にまで軍事の名目で殉教を強要することはあってはならないことだ。
 無自覚な国家神道の宗教家が、勝てない戦争に、国を誘導して、国を破滅的敗戦に持ち込むことはあってはならないことだ。

 しかしその悲劇は起きてしまった。

 国家神道非宗教論という欺瞞の論理のもとに国家神道を国民植え付けたからだ。軍人に信じさせたからだ。軍人を無自覚な宗教者にしたからだ。

 そうした悲劇を繰り返してはならない。そうしないために、国家神道非宗教論という欺瞞を憲法に載せることはあってはならない。
 政教分離の原則は守られるべきだ。
 私は、国家神道非宗教論を憲法に載せることに再度反対し、抗議する。
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by isehyakusyou | 2016-05-08 10:29 | Comments(0)