今回は弁護士さんの話でなく、私の自民党改憲草案批判を書きます。
わたしが自民党の改憲草案を読んで最初に一番驚いたのは「信教の自由」に関する条文だった。 「3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。ただし社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」 これには驚いた。 宗教だが「社会的儀礼、習俗的行為」とみなされるものとは、歴史的に見て国家神道を指す。 明治政府は、明治初期から国家神道を国民精神に浸透させ国民を一体化しようとして愛国心を植え付けようとした。 この国家神道の国教化と明治憲法の信教の自由は矛盾する。 そこで生み出された論理が神道非宗教論だ。 神道は宗教でないという理由で全国民、全宗教信者に参加を強要したのだ。 自民党はそうした欺瞞の論理を憲法に載せて、国家神道の教育を子供たちにしようとしているのだ。 神道非宗教論は欺瞞の論理だ。 なぜなら国家神道は宗教だから、教理をもって人間の規定し、人間を宗教的行為に導く宗教だから。 これはかつてこのブログで書いた。 http://isehyakusy.exblog.jp/17995397/ 2013年9月22日 今回は、そうした欺瞞の論理、神道非宗教論が、どういう悲劇を生み出したかを書きたい。 まず国家神道という宗教の基本教理について教育勅語を参考に書く。 「天照大神が子孫の天皇に日本の支配権を委ねた。だから天皇には日本の支配権がある。 国民は、天皇を主とする、家来である国民(臣民)である。だから天皇に従わなければならない。天皇は国民を親が子を愛するように愛する。国民は国家存亡の危機があれば命を投げ出して戦わなければならない」 神道は宗教でないということで、明治以来、すべての国民に教育勅語などで国家神道教育がなされた。 (そして自民党はその復活を狙っている) その際、その国家神道の最も激しい信者になったのは軍人だった。 軍人は命がけで戦う、自分が死ぬかもしれない。その軍人にとって、厳しい軍務に耐えるには、信念が必要だ。命をかけても悔いのないと思える信念が必要になることは、だれでも分かるだろう。 その信念を提供したのは国家神道だった。 軍人には、その精神の拠り所として、「軍人勅諭」が叩き込まれた。これは天皇を頂点とした国家に忠誠をつくすことを書いた天皇から軍人に下されたじきじきの文書で軍人は誰もが暗記していた。 その一部を引用する。 「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば、朕は汝等を股肱と頼み、汝等は、朕を頭首と仰きて、その親は特に深かるべき」 「軍人は忠節を盡すを本分とすべし」 「國運の盛衰なることを辨へ、世論に惑はす政治に拘らず、只々一途に己か本分の忠節を守り。義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ。其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ」 素人百姓訳 「わたし(天皇)はお前たち軍人の大元帥なのだぞ。わたし(天皇)はおまえたち軍人を手足のように頼み、お前たちは天皇を頭と仰いで、その親しみは特に深い」 「軍人は忠節を本分とすべきだ」 「国の運が上下することをわきまえて、世論を惑わす政治にかかわらず、ただ一途に自分の本分の忠節を守り、義は山より高く、死は鳥の羽より軽いと覚悟せよ。その操を破って不覚を取り汚名を着てはならない」 こうした文書を軍人は暗記して自分の信念の根底としておいていた。 軍人はこうした宗教を信仰したのだ。 崇拝する天皇の手足となり命令に従い戦い、義は山より高く、命は鳥の毛より軽く考えよと思いながら生きることを目指した。不覚を取り汚名を着るなとは国家神道のため殉教しろということだ。それを目指した。 しかし明治以来の帝国軍人に自らが宗教家だという自覚はなかった。国家神道は、宗教でないとして、教えられたからである。宗教であるものを宗教でないとしながら、信仰させた結果、宗教信者であるのに、宗教信者としての自覚を持たない、異常な精神が出現した。しかも、宗教信者の自覚のない宗教者であった彼らは、軍人であったのである。 私はここではっきり書いておきたいが、宗教と軍事の行動は違う。 宗教と軍事は正反対と言っていいほど違うのだ。 多くの宗教は、現世を超えた絶対的、永遠的なものを求める。国家神道もそうしたものを求める。義は山より高いのだ。 が、軍事は違う。永遠的、絶対的なものは求めない。現世での希望のために、現世の中で、うまく現実を調整しながら、戦うものなのだ。最終的勝利のために、計算と妥協を繰り返す。勝てる可能性のある戦いをするのだ。負けとわかっている戦いはしない。 負けるとわかっているなら、降伏して捕虜になり、生き残り、その後の再戦闘の準備を進める選択を取るのだ。 宗教は現世と妥協しない。してはならないものだ。なぜなら、宗教は、現世を超えた永遠絶対的なものを求めるから。例えばキリスト教で現世と妥協せず、死んだ殉教者は勝利者なのだ。信者が仰ぐべき崇高な手本なのだ。 カトリック教会では殉教者を勝利者として賛美する。 そして靖国神社でも戦死した英霊を賛美する。英霊は、かわいそうな犠牲者ではなく賛美されるべき英雄であり、顕彰される存在である。 しかし軍事はそうでない。軍事では殉教はしてはならないことだ。 軍事では死ぬとわかりきっている作戦を遂行するなど軍人にあるまじき愚行だ。そんなことをしてはならない。軍事は、最終的に勝つことを目指す。負けるとわかっている戦いは避けなければならない。負け戦を避けて、次の戦いの準備をすべきなのだ。軍事は計算と妥協を繰り返し、勝つ可能性のある場合戦い、現世を生き抜くことを目指す。負けるとわかっている戦争をする軍人は愚かで否定されるべき存在だ。 このように軍事と宗教は矛盾し合う。正反対の動きをする。軍事は大きく言えば政治の一部に含まれる。軍事は政治の一分野である。そして政治は、軍事と同様に、計算と妥協を行い現世を調整しながら行動する。 宗教と軍事(政治)は正反対で矛盾する。 だから政教分離がある。政治(軍事)は宗教に介入せず、宗教は政治(軍事)に介入しない。 政治(軍事)と宗教が一体化してはならないのだ。 だから、政教分離があり、信教の自由がある。政治が宗教に介入したり一体化したりしない。 しかし、そうした軍事と宗教の矛盾した中、、軍人である人間が、無自覚な宗教家だったらどうだろうか。その無自覚な宗教者が軍事行動をしたらどうなるか? 無自覚な宗教者であった旧日本帝国軍人が行動したら、どうなるのか? 軍事判断の中に無自覚に宗教判断が入り込み、本人の自覚なく悲惨な悲劇が起こるだろう。 勝てる戦いをすべき軍人が、殉教するという判断を、無自覚にしていくことになるだろう。 それが太平洋戦争で起きたことなのだ。 なぜ、勝てないアメリカとの戦争を日本が始め、余裕のあるうちに途中で妥協してアメリカと和睦する道を選ばなかったのか?その理由は日本の軍人が無自覚な宗教家だったのであり、軍事判断をする際、宗教判断を無自覚にしていった結果なのだ。 その究極が、勝てない戦いに命がけで突っ込み全員死ぬという玉砕なのだ。あるいは特攻なのだ。 私は、宗教行為として玉砕や特攻に壮絶な美しさがあること、国家への自己犠牲という宗教行為に胸をうつ壮絶な美しさがあることを否定しない。 しかし、軍事的行為としては間違いだった。 軍人は軍事的判断をすべきなのだ。 しかももっとも恐ろしいのは、国家神道という宗教の信者でない人間、あるいは、殉教するまで深い信念の無い人間に殉教を強要したことだ。政教分離がきちんと成り立ち、信教の自由が確保された場合にはそうした無理強いの殉教はありえない。存在するはずはないのだ。「私は信じていない宗教のために殉教するつもりはありません」と言えるのだ。 国家神道の信者で殉教までの強い信仰がある人間(軍人)が、自覚して殉教するのは仕方ない。ある意味美しいかもしれない。 しかし、殉教したくない人間にまで軍事の名目で殉教を強要することはあってはならないことだ。 無自覚な国家神道の宗教家が、勝てない戦争に、国を誘導して、国を破滅的敗戦に持ち込むことはあってはならないことだ。 しかしその悲劇は起きてしまった。 国家神道非宗教論という欺瞞の論理のもとに国家神道を国民植え付けたからだ。軍人に信じさせたからだ。軍人を無自覚な宗教者にしたからだ。 そうした悲劇を繰り返してはならない。そうしないために、国家神道非宗教論という欺瞞を憲法に載せることはあってはならない。 政教分離の原則は守られるべきだ。 私は、国家神道非宗教論を憲法に載せることに再度反対し、抗議する。
by isehyakusyou
| 2016-05-08 10:29
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